No,113 平成17年8月20日(土)

■ 婦人科医の寿命 ■  院長 中山 茂樹
 久しぶりに書きます。ここ3〜4日、すごいカミナリと雨でした。年々、気候が変化しているようで私が子供の頃のように夕立の後の、カラッとした日差しはどこへ行ったのかと思います。

 さて、国・公立の病院に勤めていた頃は、お盆休みなどなかったので、小浜に来てからもお盆休みをとることがいつも奇異に感じてしょうがありませんでした。しかし、日本人である以上、お盆にはお墓参りをしないとご先祖さんに叱られてしまいますよね。そこで今年は少し遅れの里(大津)帰りで、ちゃんと父の墓前に焼香して来ました。

 その昔、“愛と死を見つめて”という本(初版−1963年、不治の病に侵された女子学生が死ぬ間際まで恋人と交わした400通の書簡集。90年代にも改装版が出版されている)がありました。私は学生時代その本を読んで人の命の、今の医学ではどうにもならない面を悟りました。そしてその頃、産婦人科の医師の平均寿命は65歳と言われておりました。そこで、私として差し当たり50歳を目標に産婦人科医として懸命に働こうと心に決め、今、その目標をクリアしたので、次は産婦人科医の平均寿命65歳を目標にしております。

 それは自分の努力がかなり影響すると思いますが職業柄の宿命と医学ではどうにもならない運命を考えざるを得ません。しかし、戦前は努力も意志も、戦争の名のもとに葬り去られたのだったという事を、この終戦記念日につくづく考えさせられました。もっとも人の愛や命のために自分の命を犠牲にするという意志があったとしても戦争は美化されるものではありません。

 母が過日「三々壮途(さんさんわかれ)の歌」という著作物を出版しました。父は陸軍中野学校出であったので、そんな秘密戦士育成の学校を卒業した者が戦後どう生きたのかを記したものです(書名は中野学校の校歌の題)。戦後、母と結婚した父は過去は語りませんでしたが、私が10歳までは私に対してはスパルタ式しつけでしたが10歳を過ぎると急に私の自主性を尊重しだしました。父は外国を飛び回っており顔を合わせても会話は少なかったのですが大学に入ったころからはじめて親子の会話をするようになったように記憶しています。その父の口癖は『人類の平和と共存』でした。戦争などせずに人類が共存していく道を探らねばならないという課題だと思っています。

 言うは易く、行なうは難し、世界のことを知らぬ私にとっては永遠の課題です。でも、差し当たって私にできる事といえば平和事業である医療に、寿命の許す限り専念することだと思っています。


■ ワーキングホリデーに挑戦 ■  看護師 M・Y
 この院内紙が発行される頃、私は一年間のオーストラリア生活への出発を一週間後に控え、大きかった期待が、それ以上に大きくなった不安の前にパニックに陥っているのではないかと思っています。

 私はワーキングホリデーの話を友人から聞き、留学のように莫大な費用をかけず語学学校にも通い、働く事もでき、そして旅行もできるというその制度に一目惚れしてしまいました。外国の方と話していると、同じ時代を生きているのにこんなにも考え方や価値観が違うものかということを知りました。それは私の日本製の脳に浸透していき新しい視野を広げてくれました。周りの友達が次々と結婚、出産していく中、私も続け!との思いもありますが、やはり人と少し違うことをしてそれが失敗であっても良い経験に変えられるのは身軽な今の時期しかできないのだと思ったのです。

 テロや今なお血の流れる戦いの続くこの地球上、世界のどこに居たって安全とは言えません。「それなら自分のしたいことをしときなさい」、そう言って母は未熟な娘を世界に旅立つように背中を押してくれました。

 行くからには最低限の準備をして、思う存分楽しみ、そして何かを得てこようと思っています。


あとがき
1)当院ミニギャラリーは辻 家晴氏の船舶のペン画から松宮 昂(たかし)氏(若桜町井ノ口)の油絵に代わりました。氏は20回も日展に入選されている当地有数の画家です。
2)7月28日には恒例のバーベキュー大会を名田庄村で行ないました。
今年の当院の旅行は大阪南港で開催しているカナダのサーカス「アレグリア2」の見物で、その帰りに「三田屋」で焼肉を食べるコースでした。4班に分かれて行きますが、上の写真は8月21日、2班、真里子Dr.が9年ぶりに参加されているところ、子息も加わりました。
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