No,67 平成13年10月16日(火)

■65歳の同窓会■  総務 松井 正
 この13日、高校時代の同窓会を卒後46年目として市内のホテルで開いた。その世話役をしたので準備が大変だった。

 私の高校は昭和30年の卒業時423名、内、はっきりしているので25名、更に10名以上の物故者がいるのではないか、と思われる。参加してくれたのは121名。内、関東から15名、関西は26名、東海(中京)、越前は各2名。参加できなかった友も多いのだが、何となくそんな比率で卒業後仲間が故郷を後にしたような気がする。

 私の兄弟姉妹は5人。高校在学時の校長先生は哲学科大学院のご卒業で、29歳から他県の旧制中学の校長を歴任され、当地に赴任された方だったが、お子様は8人だった。そのように大勢の兄弟が当り前だったから高卒後、皆遠い各地に平気で飛んで行った(小浜から東京まではその頃、鈍行列車で16時間以上かかった。随分遠かった)。

 今回の同窓会で特別に感じたことがいくつかあった。一つは今回7、80名も集まればいいだろうとの大方の予想がはずれた。これを機に故郷へ帰れる喜びが大きく働いたようだ。何年ぶりだろうとか何十年ぶりだとか言っている友もいた。もうこの地に家はない、というのもいた。懐旧の念もさることながら回帰の念が大きいのではないか。高校の同窓会の係の先生は「この頃は卒後20年の同窓会が増えているんです。かつては少なかったのに」と言っていた(我々も20年はしなかった)。推測するに以前は高卒後20年くらいは会社人間の働き蜂で、同窓会や故郷を顧みる余裕はなかったのに、現今、30歳台終わり、人生や社会を見る目が変わり、故郷への回帰、脱都会の心が生じているのではないか。

 二つ目は、集まった友は皆生き生きしていた、ということ。生き生きしているから集まれる、とも言える。今回の会の案内の往復はがきに対し(宛名不明を除いて)ほぼ100名の者がナシのつぶてであった。せめて「欠席」に○をするだけで回答すればいいのにと思う。ど忘れ、病気、葉書の紛失などいろいろ考えてもその割合は少ない。奥様から「主人は何月何日、闘病の末死去しました。」とかご主人が「家内は昨年、亡くなりました。」とか書いて返事を下さると涙を誘う。ナシのつぶての者は一見元気でも、生き生きしていない連中のように思われて仕方がなかった。

 三つ目は、友とはいいものだ。本当にタイムスリップして17・8歳に戻った。矩(のり)を越えない歳に近いがまだ色っぽいことを盛んに言っている者がいる。地位も富も関係なく昔に戻っている。少し話せば、随分不幸な目に会ったなあというのが知れる者も、一緒にいる時は皆横並びになった。

 四つ目は、次回4年後の話。卒後半世紀の50周年記念となる。その時に何人元気で集まれるかと。今回よりも少ないという意見と、50周年だからもっと集まるでエ、という意見とに分かれた。悲観派と楽観派、マイナス思考とプラス思考、健康に自信のない者とある者、の違いか。私は勿論、150人は集まるでエと言った。

■私は目指す■  看護婦 K・H
 不妊治療という先の見えない治療は想像以上に辛いものです。私自身2人目になかなか恵まれず、3度の流産を繰り返し、絶望的な気持ちになっていた時もありました。3年間の治療で授かった子どもは2歳を過ぎました。不妊治療という大変な思いも流産の悲しい経験も思い出したくはありませんが、自分が経験したからこそ今は患者さんの気持ちがとてもよく分かります。

 人の命を預かる私達の仕事は正確さと機敏さが求められます。忙しい仕事に追われているとただ処置をこなすだけの機械的な看護にだけなりがちですが、もっと大切なものを忘れてはいけません。心のケアも看護の大切な仕事なのです。今、私はこの患者さんに何をしてあげられるか、どんな言葉で癒すことができるか。難しい課題です。ある本にこんな言葉を見つけました。「この道はどこまで続くのかと歩きながら考えた。夢を胸に見る現実、心だけでは進んで行けない。心と技術で一歩ずつ、今、私はナース」。まだまだ、人間としても未熟な私には十分な心のケアは出来ないかも知れませんが、これから多くの患者さんから学び、そして自分自身を磨いてより良い看護が出来ればと願っています。

 「看護は終わりのない一つの道」、まだまだ課題は尽きません。

お し ら せ
1)当院ミニギャラリーは9月末迄の畠中幸子さんの油絵につづき、今月、第30回は岡見昇さん(小浜市甲ヶ崎)の油絵です。岡見さんは近々個展を開かれます。またお知らせします。


2)9月25・26日は若狭高校商業科4人(女子)、27・28日は情報処理化3人(女子)が当院の託児室でインターンシップ(職場体験)として実習をしました。
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