No,65 平成13年8月20日(月)

■義父・故中山恭三氏のこと■  小児科医師 中山 真里子
 猛暑の今夏でしたが、お盆を過ぎさすがに熱帯夜はなく、眠りやすくなりました。夏の疲れが出やすい頃ですから体調を崩されませんように。

 この暑さの中、世界陸上での日本人選手の活躍、特にトラック競技での初のメダルの獲得は暑さを忘れさせ爽やかな気持ちにさせてくれました。

 さて、私事ですが7月27日に義父・中山恭三が滋賀県大津の地で亡くなりました。享年77歳、まだ早い年齢でした。10年以上前に胃の手術を受け私共の産婦人科、小児科以外の殆どの科にお世話になりました。2年前には喉頭腫瘍で手術、その後転倒して硬膜下血腫、顎骨骨折、今冬頃より横になっていることが多くなりました。不平は言わず、一人で運命を受け入れているかのような態度でした。とても優しく、物静かでいつも微笑んでいる義父、ただお酒が入ると饒舌になり、ほがらかに周りを笑わせ楽しくしてくれました。

 一方、何かとまめな面があり、私達が結婚した時にはすでに退職して寝たっきりの祖父(義父の父)がいて、その面倒をよく見ていました。オムツを替えたり、ゴミ出し、洗い物はもちろん、漬物作りも義父の担当でした。義母が海外旅行などで長期不在でも平気で、自分で食事を作り、一人で留守番をしていました。東レマン(東洋レーヨンの社員)で海外出張、単身赴任が長かったせいでしょうか。義父の年代には珍しく、自分の身の回りのことは自分できちんとできました。この点は夫にも見習って欲しいものです。                     

 また、義父は“捨てる美学”を持っていました。これには義妹が折角仕上げた宿題をねじって捨ててしまったという逸話もありますが、我家に滞在中は遠慮してかこの美学が発揮されることはありませんでした。本当はうずうずしていたのかも知れませんが・・・ 

 淡々として小事に拘わらず些細なことは笑いとばしてしまう懐の広さ。それでいてここという時はきちんと決断する潔さ、をよく感じました。            

 我慢強くもあって今回の闘病中も「痛い、辛い」とは一言も発せず、担当の先生方も驚嘆されました。こんなところは陸軍中野学校で鍛えられたことが関係しているのかもしれません。  

    決して器用とは言えないかも知れませんが運命に逆らわず、その時その時を悔いなく精一杯生きる義父の生き方には何故か“柳の木”を連想します。

 今年5月、当院の五周年記念が最後の来浜で、夫から義父へのプレゼントでもありました。亡くなる直前、病室を最後に見舞った時、なぜか波長の合う息子(義父からは孫)の雄貴がバイバイし、それに応えて義父が手を振りながらバイバイと言った言葉が私達の聞いた最後の言葉となりました。

 義父の語ってくれた話や何気なく示してくれた生き方は今、あざやかに心によみがえります。どうかおとう様、安らかにお休み下さい。


  故 中山恭三氏  略歴

・大正12(1923)年10月7日 滋賀県大津市国分町生まれ
・県立膳所中学校(旧制)卒
・国立京都高等蚕糸専門学校(現 京都工芸繊維大学)卒
・兵役入隊 途中で
・陸軍中野学校入学、卒(卒の同年終戦)
・東洋レーヨン株式会社入社
・東京大学西村教授のもとでペニシリン培養の研究に従事
・日本学術会々員
・東レでペニシリン製造
・ペニシリン製造中止
・染色体研究所へ
・第2バンコック駐在員
・以降 海外技術課長 海外事務部次長 海外事業部主幹などこの間1年の内半分は海外出張 訪問国は40ヶ国に及ぶ
・タイ国スーティングミルズ社 副社長兼工場長
・東レ 退社
・東洋整染株式会社取締役を経て退社


あとがき   
1)一昨年(平成11年)10月に当院小児科医師中山真里子Drの実父池田義隆氏(福島県須賀川市在住)が享年74歳で亡くなられたのもついこの間のように思っていましたら、この7月、今度は院長の実父(大津市在住)が亡くなられました。
 お二人とも若い頃から懸命に仕事をされ、充実した人生を送られた方とお見受けしました。
 謹んで、ご冥福をお祈りいたします。

2)院長の実父中山恭三氏については前号で院長が「父の薫陶」と題して執筆され、その中でもまたこの号の中でも出ています「陸軍中野学校」については内の職員で40歳以下の者(90%)は聞いたこともないということでした。

3)当院のホームページのQ&Aは好評です。先日は福岡県からアクセスがありました。

4)当院のミニギャラリーは目下 畠中幸子(ゆきこ)さん(上中町三生野)の油絵。好きだから独学で描いているという方です。味わってください。 
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