No,64 平成13年7月18日(水)

■父の薫陶 ■  院長 中山 茂樹
 早々と雨の少ない梅雨明けとなり、今年の夏は水不足が心配だなあと思っていたら、いきなり雷が鳴り響き、首をすくめる数日でした。体調をこわし易い時期です。お体には十分ご注意を!

 私事ですが今回は私の父を紹介させて頂きます。父は我国の敗戦前に極秘に設立されていた「帝国陸軍中野学校」の出身です(専門学校から帝国大学へ進むところをそこへ入れられたのでした)。私がそのことを知りましたのも高校生のとき(昭和43年頃、丁度、市川雷蔵の「陸軍中野学校」という映画をやっていた頃か)で、それまで私達には秘密にしていました(「中野学校」とはいわゆる“諜報員”を育てる機関で、“中野は語らず”と教えられ、入学と同時に戸籍も抹消され、敗戦後も長らくこの存在は一般には知られていませんでした)。

 私の小学3年生(昭和37年)の頃までは厳格な父で、一度悪さをした時には“歯を食いしばれ”の声と共に平手打ちをされたこともありました。以降商社勤めの父の転勤に付き合わされ、京都、大阪、東京と転々としていく内に丸い父に変貌しました。

 父は海外出張も多く、家族とは長期間顔を合わさない日々が続いたりする仕事一筋だったので、子育ては母にまかせっきり、子煩悩ではないと思っていたのですが、私が16の時「お前も昔の元服の年になったのだから、自分の行動は自分で責任を持ちなさい」と唐突に言われました。「人に迷惑を掛けたら自分で責任をとりなさい。人に迷惑を掛けられたら黙って辛抱しなさい」とも言われました。

 また、20歳(大学3年生)の時、2人で赤ちょうちんで飲んでいた時、「これからの人生、人類の平和と共存をテーマに過ごさねば・・・。私利私欲はどこかで行き詰まる」とも言われたのが忘れられません。そして40歳の時は「お前達2人が医者だからといって何も偉くないのだから普通の人(医者)になりなさい。地位や名誉は何の価値もないものだから」と、折に触れ話してくれたことが(機会が少なかったから、余計)いつまでも心に残っています。
 
 何十年も経つ今も思い出され、大げさかもしれませんが私の生きる指針になっているようです。

 その父も今、闘病生活に入っております。もう一度、元気を取り戻した父に小言を言われたいものです。

■わが子は暖かい人たちからの授かりもの■  敦賀市 K.I
 我が子も4ヶ月になり、あやすと笑う姿をみながら子供を授かった幸せを実感しています。

 思えば不妊治療を始めて数年、出口が見えなくてあきらめかけていたところへ妊娠が分かり、超音波で写った胎児の姿を見た時は涙が止まりませんでした。

 高齢(40過ぎ)ということもあり、最初は入院、そして家での安静、やっとの思いで授かったので健康管理には十分気をつけたのですが、それでも蛋白が下り続けたので出産前には早めに入院し、帝王切開で無事出産することができました。長い長い道のりでしたがこうして夢にまで見た我が子を抱くことが出来るのも、先生やスタッフの人達の長年にわたる励まし、職場の人達の理解、そして夫の優しさ、暖かな心づかいのおかげだと思っています。

 治療中から何度も挫けそうになった私を支え小浜までの遠い通院を「ドライブのつもり」と言ってずーっと運転手になってくれた夫・・・、ただただ感謝の気持ちで一杯です。暖かい人達に恵まれて本当に幸せです。私を支えて下さった全ての人達にこの場をお借りしてお礼を言いたいと思います。本当にありがとうございました。

あ と が き
1)前号に続いて当院のホームページ<http://www.nakayamaclinic.jp/>の紹介をします。右はその「院長挨拶」の部分です。

2)7月から当院ミニギャラリーは畠中幸子(ゆきこ)さん(上中町三生野)の油絵です。師につかず、絵が好きで独自に描かれている方の作品です。

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